メモ
精神が未熟なままに知恵だけ発達して手がつけられない子供が増えている。
そんなこどもが合言葉のように発している。
「どうして人を殺してはいけないんですか(なぜか丁寧口調で)」
滑稽なのは、そのような質問にあたふたする大人たちである。
まず基本的にその質問の形式に振り回されていることが間違っているんじゃないのか。
まず「殺す」という単語の存在がことを難しくしているのだ。
日本語に多く見られるこのような言葉。
どういうことばかというと、「行為+性質」という2面性をもっているのが特徴である。
簡単に言えば、「殺す」という言葉自身に「非道徳」というニュアンスがあらかじめこめられているということ。
これによって、「人の命を奪う 悪い行為」という意味が確定してしまい、それにたいしてのアンチテーゼが必然的に「人の命を奪う 悪くない行為」となるが故に頭の固い大人があわてるのである。
ここから筆者の意見。
簡潔に言おう。
「人の命を無くす行為」はそもそも中性的な意味合い。「食べる」「走る」と同じベクトル。
何が悪いのか。それは冷静に考えればいたってクリアーだ。
「自分はもっとこの先の人生へのビジョンをもってそれを実現することを夢見て生きていくつもりであったのにその意思に反してその命を奪われたから」
これを考えると結論はこのようなものになる。
「自分の意思に反した行為をされた。それが自分には不当」
これではないのか。
おわかりだろうが、この見解から言えば安楽死、尊厳死、果ては自殺まで肯定することになる。基本的に「生きる権利があるのであればその行為の延長線上にある死ぬ権利も保障されてしかるべき」という意見には賛成である。
さて、自殺を肯定するのかけしからんと食って掛かられると、またそれはさっきの話を再び持ち出さなければならないことになる。
芥川龍之介の「ただぼんやりとした不安」、夏目漱石「こころ」の「先生」の「明治に殉じた」行為、
これはまったくの自意思によるものであってなんら他人の干渉によるものではない。
だからといって福岡、滝川の少年、少女の自殺はどうなのか。これはほぼ他殺であるといっていい。「自分はこの先の人生にビジョンを抱いて・・・」を読み返していただきたい。完全に該当するではないか。つまり彼らは自殺に「走らされて」いたのである。これは周りの状況が非難されるべきである。
ただ、「加害者たち」は命を奪ったわけではない。命を奪ったのは死んだ彼ら自身である。その「がけっぷち」へ追い詰めた地点から「死」への一歩は、彼らの意思的行動である。それは本能に根ざした自殺願望というもので、その発現は人間の本質という面で肯定はする。ただその対象は「人格としての彼ら」ではい。「生物種としての人間の一個体としての彼ら」である。その見えない何かが「アンチ生」ベクトル(!!)の行為へとその存在を向かわせる、それは畏ろしくも果てしない情景ではないか。

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